プロフィール
Premium Golf WEB Magazineの編集・発行に携わるスタッフをご紹介します。
カメラマン 小林 滋 こばやし しげる
ゲーリー・小林の名で知られる日本を代表するプロゴルフトーナメントカメラマン。日本国内はもとより世界4大メジャーなど多くのプロゴルフトーナメントを取材。国内外のプロとも親交が厚く、中でもタイガーウッズに最も信頼されているカメラマン。これまでの収録枚数は20万枚以上。
ゴルフフォト、ゴルフカレンダー等の依頼-

原稿、講演等の依頼 -
文章
ゴルフジャーナリスト 武藤 一彦 むとう かずひこ
ゴルフジャーナリスト。ゴルフ評論家。1939年11月・東京・杉並で生を享け、その後、世田谷区で育った。池ノ上小学校、北沢中学、都立千歳高校を経て1960年に立教大学社会学部新聞学科に入学する。大学では新聞文章論などを専攻した。
部活はゴルフ部。奇しくも1957年の「カナダカップ」(現ワールドカップ)で中村寅吉、小野光一プロペアの日本チームが優勝し、さらにこれが日本初の本格的な国際試合の開催、初のテレビ中継に加え、日本が世界一になったことからゴルフに注目が集まり、ゴルフ部には100人近い新入生が入部していた。...詳しく読むまた、当時は東京オリンピック開催を1964年に控え、インフラが急進中で、そんな中で全国的にゴルフ場も一気に数を増やしていた。そのため社会的にもゴルフの環境が整い、それはマスコミ界にも影響し「ゴルフのジャンル」という新しい領域が芽生えたころでもあった。
最初の私の愛用クラブはマグレガー社の『ボビー・ジョーンズ』のヒッコリーシャフトのドライバーと2番ウッド。アイアンは当時新発売した日本メーカーの『スカイラーク』、パターは木槌タイプの木製ヘッドを使った。卒業時は、ウッドはダンロップ。アイアンは『ウイルソン・ダイナパワー』、パターは『ボブ・トスキ』モデルに替わっていた。
もちろんウッドはパーシモンヘッドで、現在のチタンヘッドからは想像もできないほど容量が少ない小型のヘッドだった。戦歴は東西大学対抗戦の代表として関西遠征を経験。2戦して1勝1敗と立大チームに貢献した。当時の大学対抗戦とは東西の大学が、それぞれ行う春・秋のリーグ戦上位4校が隔年、ホームアンドアウェイ方式で学校別に対戦する大会。
東京・大阪間が特急で11時間も掛かった“関西が遠い時代”で、大学日本一を決めるチャンピオンシップとしてはまさに価値があった。しかし大会は新幹線ができた数年後に消滅。さらに飛行機便の整備も進み日本国内の往来が容易になったためだ。
東京五輪が開催された1964年に報知新聞社に入社し、運動部に配属された。以来一般スポーツ一筋。初担当種目の陸上競技を皮切りにプロボクシングとゴルフを任される。入社早々の東京五輪では国技の柔道で神永昭夫がアントン・ヘーシンク(オランダ)に決勝戦で敗れるというショッキングな試合も取材した。
その後、メキシコ、モントリオール、ロサンゼルス五輪では、前取材で大会前の現地を長期取材もした。さらに市民マラソンの老舗大会「青梅マラソン」の立ち上げにも関与し、第1回目から取材。姉妹提携の「ボストンマラソン」(アメリカ)の取材は10数回に及んだ。1970年代に入りプロゴルフ界に「プロ競技ツアー」が立ち上がりこれを取材、ゴルフの報道が国際的に広がりを見せるとともにゴルフ専従となる。現代ではどの新聞社も当たり前になっているが、当時としてはまさに画期的なものとして、報知新聞ゴルフ担当は、スポーツ新聞にて競技者の全成績掲載、主要プレーヤーのホールバイホール(各ホール毎の各選手のスコア)、独自の賞金ランキングの採用等を“決まりもの”として常時掲載するアイデアの先駆者であったし、日本の男女プロツアーの『ツアーブック』(選手年鑑)編纂も最初に手掛けた。
1970年代から、A・O・N(青木功、尾崎将司、中嶋常幸)、尾崎兄弟、樋口久子(現日本女子プロゴルフ協会会長)、岡本綾子(米国賞金女王)。そして時を経て現在ではジュニア時代から宮里藍、石川遼とゴルフ界の変遷を常に現場で見詰め続けてきている。海外トーナメントは4代メジャーを中心に1977年の「全英オープン」から「マスターズ」「全米オープン」「全米プロ」と現在も取材している。中でも最も印象深いものは、1783年の「ハワイアンオープン」で、青木功プロが最終18番ホールの第2打目を直接入れた“劇的なチップインイーグル”の優勝だった。この時、私は現地で取材していた数少ない日本人メディアの一人だった。
まさにプロゴルフツアー界草分け的な存在。そしてゲームの流れに選手の内層心理を加えるなど現在のゴルフ原稿の基礎を築いたと自負している。
「ゴルフの技術はプレーヤーの人格を表す」が持論。選手の人と為りに加え、その技術の背景を、ゴルファーの人格ととらえ、これまで50人を越すトッププレーヤー、ティーチングプロのレッスンを多角的に紙上で展開してきた。それらをまとめた共著に『青木功のスーパーゴルフ』『井上透 その世界』『海老原清治のやさしいゴルフ再生論』『若林貞夫のゴルフは突きだ』など多数の著書がある。現在は、報知新聞編集委員、専属評論家を経て2009年から日本プロゴルフ協会(PGA)理事。他にトーナメント振興協会メディア委員、青森・夏泊ゴルフリンクス理事、世界ゴルフ殿堂選考委員を務める。
日本ゴルフ協会(JGA)広報参与も2000年から9年間務めた。
07年、『日本プロゴルフ協会50年史』の編纂委員長。他にゴルフ年史は『日本プロゴルフ協会30年史』『日本ゴルフ協会70年史』『ゴルフ日本シリーズ20年史』などの編纂に携わった。武藤一彦氏のプロフィールを掲載する場合は(株)コムニコまでお問い合わせ下さい。
ゴルフ画家 山本 功 やまもと いさお
昭和11年生まれ。日本を代表するゴルフ画家。美術専門学校・油絵科を卒業後、最初は美術雑誌や新聞・雑誌の小説の挿絵を担当していた。
数年後、ゴルフ雑誌社から初めてゴルフレッスンのイラストの仕事の発注がくるが即断に断ってしまう。その時の断った理由が実に面白い。当時の画伯はゴルフを全くしていなかったため、「ゴルフを知らなければゴルフは描けない。ゴルフを覚えるから時間が欲しい」というのが断った理由だった。
その後、本格的にゴルフをした画伯は約1年で70台をマークするまでになる。技術的にもシングルプレーヤーになった画伯のタッチは、他の追随を許さないほど繊細で「レッスン用イラストは写真よりも分りやすい」と評判になる。これが今や日本を代表するゴルフ専門のイラストレーターとして知られる山本画伯のゴルフとの出会いだった。画伯の描くイラストはスウィング中の手・指の握りはもとより筋肉の動き、ウェアの袖、スラックスの裾の動きまで、その繊細で正確なタッチは青木功プロを「最高のイラストだ」といわしめたほどだ。...詳しく読む
これまで日刊スポーツ、東京スポーツのゴルフ欄をはじめ、NHK趣味のゴルフ、JPGA(日本プロゴルフ協会)ゴルフ教本などのゴルフ画多数を担当しているが、もともと油絵が専門のためゴルフコース、特に英国のリンクスを描いた油絵や水彩画の作品は高い評価を得ている。
また、ゴルフの他に釣りが趣味で、現在でも短い竿とスケッチブックを片手に全国の河川を訪ねては、釣り糸を垂らしながら風景画も描き続けている。

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編集
大山 郁夫 おおやま いくお
1956年生まれ。廣済堂出版在籍中、ゴルフ雑誌編集業務に携わり、『月刊アサヒゴルフ』『週刊アサヒゴルフ』『最強のゴルフブック』の副・編集長を歴任する。
在籍中、世界のゴルフレッスン界の大御所、ボブ・トスキを始めその愛弟子のピーター・コスティス、デビッド・レッドベターらを取材した際、わが国のゴルフレッスンの無能さを痛感。後に著したのが『間違いだらけのゴルフレッスンを斬る』だった。...詳しく読む
ゴルフトーナメントでは国内はOAN(尾崎将司プロ、青木功プロ、中嶋常幸プロ)を始め、海外では4大メジャーを中心にゴルフ界の帝王、ジャック・二クラス、新帝王、トム・ワトソン、世界NO1プレーヤーのタイガー・ウッズを始め新旧の数多くの世界のトッププロを取材。また、マスターズの舞台、オーガスタナショナルGCやゴルフの聖地、セント・アンドルース・オールドコース、ペブルビーチゴルフリンクスを始め海外の名門ゴルフコースも数多く実際にラウンドして、トーナメント同様、独自の視点でクオリティの高いリポートをしている。
さらに、ゴルフ場の設計やゴルフクラブにも興味を示し、それぞれの専門家との研究会を通し独自の理論を持つに至る。99年3月、同社を退社後、「R・Aナビコーポレーション」を設立し、主にゴルフ雑誌の編集、ゴルフ関連のプランニング業務に携わる。その間、中古ゴルフクラブショップ「ゴルフパートナー」の会社設立に参画。同社の広報情報誌『ゴルフパートナーCom』を企画立案し創刊させる。
現在は2008年、株式会社コムニコの代表取締役に就任し、高級ゴルフメディア情報誌『Premium Golf』を創刊、さらに同社のインターネットゴルフサイト『premium-golf』を運営してプレミアムなゴルフの情報を発信している。
日本ゴルフジャーナリスト協会(JGJA)会員。主な活動
『間違いだらけのゴルフレッスンを斬る』
『ゴルフパートナーCom』創刊・発行
『渡辺 司プロ ゴルフセミナー』企画立案
『藤田 寛之プロ ゴルフセミナー』企画立案
『芹澤 信雄プロ ゴルフレッスン(DVD)』企画立案
『Premium Golf』創刊・発行
『premium-golf』インターネットゴルフサイト運営