日本のゴルフ界に貢献したプロゴルファーを表彰し、その偉業を後世に残す「日本プロゴルフ殿堂」が設立された。栄えある第1回目の受賞者は・・・・
文:大山 郁夫 13日に終了した「三井住友VISA太平洋マスターズ」は、 弱冠19歳のアマチュア・松山英樹選手(東北福祉...
出会いから密着4年、新米記者が石川遼の素顔を綴る 9月17日、満20歳の誕生日を迎える石川遼プロ。その日、記念本となる『石川遼、20歳』(税込1200円)が日本テレビ放送網より発売されることとなった。
ジャンボ尾崎、114勝に向けての飽くなき戦い! この度の『ジャンボ尾崎将司プロ特集』の中でも目玉となるのが今回掲載する愛用クラブの特集です。特にジャンボ尾崎プロが大事に保管する歴代の愛用クラブは、ほとんどが刻印付きで、実際にジャンボ尾崎プロが数々のトーナメントで使用したモデルとして、これまでは門外不出でした。
ジャンボ尾崎、114勝に向けての飽くなき戦い! ジャンボ尾崎プロはギアのゴルフクラブへの卓越した理論を持つばかりかゴルフコース設計に対しても一家言持っている。これまで国内外合わせて11コースの設計を監修しているが、そのどれも高い評価を得ている。そこですべてのコースで共同作業したコース設計家の佐藤謙太郎氏にお話を伺った。
ジャンボ尾崎、114勝に向けての飽くなき戦い! プロゴルファー尾崎将司が誕生して以来、彼は今日まで日本ゴルフ界に多大なる貢献をしてきた。ゴルフファンの急増、トーナメント数の増大などもそうだが、一番印象に残るのはやはり自ら立ち上げた『J’s』ブランドではないだろうか。その誕生秘話を、立ち上げから現在までもジャンボ尾崎プロと密接な関係にあるJGTO(日本ゴルフツアー機構)の田中徳市氏にお話を伺った。
ジャンボ尾崎、114勝に向けての飽くなき戦い! 「日本プロゴルフ選手権」で初優勝を挙げた尾崎は、その年、「日米対抗」「ゴルフダイジェスト」「瀬戸内サーキット広島」「日本シリーズ」にも優勝。驚異的な飛距離とスポーツマンらしい風貌と華麗なファッションで日本のゴルフをメジャーなスポーツへと押し上げる多大な貢献を果たしていく。
ジャンボ尾崎、114勝に向けての飽くなき戦い! 西鉄ライオンズを1967年に退団した尾崎は本格的に福岡でゴルフに取り組もうとするが、いろいろなしがらみから千葉県の習志野カントリークラブで修行を積むことになった。プロ野球の選手としては大成しなかっただけに、もう後には引けない。
ジャンボ尾崎、114勝に向けての飽くなき戦い! 1964年(昭和39年)の春の第36回選抜高校野球全国大会に海南高校は初出場を決める。いくら徳島県には鳴門高校や徳島商業などの強豪校があるとはいえ、初出場の海南高校はまったく優勝候補ではなかったが、尾崎正司の快投によって日増しに台風の目的存在になっていく。
ジャンボ尾崎、114勝に向けての飽くなき戦い! 何ごとも1番でなければ気が済まない「ガキ大将」尾崎正司少年! 1947年(昭和22年)1月24日、徳島県海部郡宍喰町(現・海陽町)に一人の男子が誕生した。父・尾崎実、母・寿子の長男・正司(本名)で、後に日本ゴルフ史上最強のゴルファーとなった尾崎将司だ。
ジャンボ尾崎、114勝に向けての飽くなき戦い! 2010年10月6日、水曜日。横浜市内のホテルで、ジャンボ尾崎の『ゴルフ殿堂入り』が発表された。ゴルフ界からは祝福の声が相次ぎ、ジャンボも素直に受賞を喜んだが、「戸惑いを感じた」ともコメント。絶えず日本一を目指してきて、今なお生涯現役にこだわるジャンボにとって『ゴルフ殿堂入り』はゴルフ人生の中の一コマにすぎない。
ジャンボ尾崎、114勝に向けての飽くなき戦い!! ジャンボ尾崎プロの全面的な協力をいただき、日本ゴルフ史上に燦然と輝く113勝の足跡とその功績を大特集します。113勝すべての貴重なる優勝カップ・トロフィをはじめ、ジャンボ尾崎プロの人物エピソード、一世を風靡した“J’s”ブランドの誕生秘話、現在でも高い評価を得ているコース設計哲学など、ジャンボ尾崎プロのすべてを網羅!
スペインが生んだ偉大なるプロゴルファーで“セベ”の愛称で世界中にファンを持つセベ・バレステロス氏(本名セベリアーノ・バレステロス・ソタ)が7日、がん性脳腫瘍による合併症のため、スペイン北部の自宅で死去した。享年54歳。
1回でも多くの義援金活動を 日本ゴルフ界の至宝、ジャンボ尾崎将司プロが26日(土)、千葉県・JR船橋駅前で東日本大震災の被災地への募金活動を行った。
ジャック・ニクラス、競技生活を目いっぱい戦った真の王者 ゴルファーであるニクラスが主張する1997年の出来事は今でも忘れられない。彼の主催する米ツアー、「メモリアルトーナメント」はニクラスが尊敬するボビー・ジョーンズにオーバーラップして立ち上げた。
往年のトッププレーヤーを日本人の目線で捉えようと意識しているこのコラム。 ここからは身近なニクラスに焦点を当てる。優勝したことより普段の姿、人間ニクラスを追うしかない時代背景の中、記者として接点が持てたことは貴重な経験だった。
ジャック・ニクラス、競技生活を目いっぱい戦った真の王者 ジャック・ニクラスのプロ初優勝は1962年の「全米オープン」だった。 ペンシルベニアのオークモントCC、あのアーノルド・パーマーの地元とあって“アーニーズ・アーミー”の反発を真っ向から受けながらの優勝。伝統に従って本戦終了の翌日となる月曜日に18ホールのプレーオフという厳しい中での優勝だった。
日本ゴルフトーナメント振興協会(GTPA)の第21回定時総会が2月1日、都内のホテルで開催され、2010年度の「GTPAルーキー・オブ・ザ・イヤー」として男子は園田俊輔、女子は藤本麻子の両名が選出された。
武藤一彦のUSPGAツアーリポート タイガー・ウッズの2011年、初戦に思う タイガーの初戦は44位タイ。新たなコーチとスウィングを改造し、マッチョにも変身し、満を持して自信を持っての参戦だったが、その内容は散々たるものだった。
夢から現実へ! 藤田寛之が“マスターズ挑戦表明会見” 4月7日(木)から開催される今季の4大メジャー初戦、ゴルフの祭典「マスターズ」に招待された藤田寛之が、1月13日(木)、ヤマハホールでマスターズ挑戦の表明記者会見を行い、その意気込みを語った。
世界を日本人目線で見せてくれた恩人 2010年秋、ワトソンに2時間インタビューする機会を得た。韓国で米チャンピオンズツアーが初めて行われたが、そこは新設の「ジャック・ニクラウスGC(仁川郊外の新松島)」だった。そして、石川遼のことも話題になった。18歳と60歳は「全米オープン」「全英オープン」で予選ラウンドを同組で回った。
世界を日本人目線で見せてくれた恩人 ワトソンといえばニクラスとの帝王交代劇をめぐる争い。私たちは世界メジャーで繰り広げられるそのドラマチックな闘いに興奮したものだ。1977年の「全英オープン」。世紀の対決といわれたニクラスとの争いはスコットランド・ターンベリーのアイルサコースで行われた。
世界を日本人目線で見せてくれた恩人 1970年代は日本のトーナメントの夜明け。そしてその先頭に立って引っ張ったのがトム・ワトソン。ワトソンこそ世界を日本に持ち込んだ男。日本のゴルファーは、意識するにしろしないにしろ、その動きから学び影響を受けたのである。私もそんな一人である。
スペインの生んだゴルフのヒーロー、駆け抜けた奇跡の人生 バレステロスを語るうえで忘れてはならないのは、初の「全英オープン」タイトルをとった79年だ。開催コースのロイヤルリザム&セントアンズの有名な16番ホール・パー4は左ドッグレッグ。セベはティショットを右に打つと、ボールは役員の駐車場に飛び込み、オースプーンチンハーレーの車の下に潜り込んだ。
スペインの生んだゴルフのヒーロー、駆け抜けた奇跡の人生 初来日は1975年の「ダンロップフェニックス」。宮崎の11月。セベ・バレステロス、18歳6ヵ月の秋。後で調べたら、彼がスペインでデビューしたのは1974年、17歳の時すでに小さなプロ競技で1勝を挙げていた。今でいえば石川遼みたいな騒ぎがスペインや欧州であったのだろうと推測される。
スペインの生んだゴルフのヒーロー、駆け抜けた奇跡の人生 「セベ」と馴れ馴れしく呼ぶことを許してもらえる仲であると断るのも変だけれど、彼に「あなたはマイ・ラッキー・チャームだ」と言われたことがある。勝利を呼び込むラッキーな人、僕のお守りみたいな人。
60歳を過ぎた現在でもあくまでレギュラーツアーに固執し、その飽くなき探究心に衰えはなく、日本のゴルフ界を牽引する存在感を依然として輝き放っている不世出のプロゴルファー、尾崎将司。
ジャンボ尾崎プロは1970年にプロデビュー、翌71年に「日本プロゴルフ選手権」で初優勝を飾ると、2002年までの間に113勝を達成。 その間に賞金王12回、年間最多優勝8回、最年長優勝記録(55歳7ヶ月29日)等その記録・足跡は、現在、日本ゴルフ史上に燦然と輝いています。
日本ゴルフ史上に燦然と輝く『ジャンボ尾崎 前人未到113勝の軌跡!』 10月6日、“ジャンボ”尾崎将司プロの世界ゴルフ殿堂入りが発表されました。これはジャンボ尾崎プロがこれまで残した功績に対し、世界ゴルフ殿堂委員会が称えたもので、日本人プロでは樋口久子、青木功、岡本綾子に続く4人目となります。そこで今回はトーナメントカメラマン、ゲーリー小林氏の協力のもと、その貴重な写真とともにプロゴルファージャンボ尾崎の偉大なる軌跡を辿ります。
天才ジョーンズの質感と相対する職人プロ・サラゼン その時代。要するに二人が活躍した時代は、おそらくゴルフ界はボビー・ジョーンズ一色だったはずだ。 1922年、サラゼンが「全米オープン」に勝った時、1打差2位はジョーンズである。同じ20歳同士のつばぜり合いだが、世間は、そう、今の石川遼のごとき興奮をトップアマに送り続けたと想像できる。
天才ジョーンズの質感と相対する職人プロ・サラゼン 70年代から毎年、翁は大会前のオノラリースターター(名誉スターター)を務めた。ファーストラウンドの早朝にも関わらず、1万人近いギャラリー(マスターズではパトロンと呼ぶ)が練習場から絶大な拍手で送り出すのが恒例となっていた。
天才ジョーンズの質感と相対する職人プロ・サラゼン サラゼンは1902年、ニューヨークに生まれ8歳でキャディ、19歳でプロゴルファーとなる。1922年、20歳のとき「全米オープン」で初優勝。1935年の「マスターズ」までに「全英オープン」、「全米プロ」とメジャー7勝。現在いわれるところの4メジャーのタイトルをすべて手中にする初の生涯グランドスラム達成者となった。
パーマー、攻撃ゴルフの真髄 1980年、パーマーが50歳の年、米シニアツアー(現チャンピオンズツアー)が立ち上がった。パーマーが歩く後ろを往年の名選手が列をなして笑顔で続いた。大企業がこぞってスポンサードし財政支援。
パーマー、攻撃ゴルフの真髄 アーノルド・パーマー(アーノルド・ダニエル・パーマー)は、1929年9月10日、アメリカのペンシルベニア州ラトローブに住むプロゴルファーの家に生まれた。
パーマー、攻撃ゴルフの真髄 パーマーチャージ。攻撃する、突っ込む、戦う。 ゴルフに激しさを盛り込み、戦う姿勢と勝つことに専心する姿を持ち込んだのは誰あろう、アーノルド・パーマーだった。
“南アの黒ヒョウ”ゲーリー・プレイヤーの本性 1935年11月、南アフリカ・ヨハネスブルグ生まれ。アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラスとともに“ゴルフのビッグスリー”を形成、世界のゴルフ界を常にリードしていた。
“南アの黒ヒョウ”ゲーリー・プレイヤーの本性 アメリカのツアーには妻と6人の子供を連れて行った。空港からタクシー4台。荷物が30個はあったからね。ホテルはスイートルームなど3部屋が必要だった。
“南アの黒ヒョウ”ゲーリー・プレイヤーの本性 黒のウェアが勝負服、ついたあだ名が「黒ヒョウ」(ブラックパンサー)。まさにプレーぶりはヒョウの狩り、牙をむきフェアウェイを疾駆すると、ホールに静かに忍びより獲物を決して逃さない。
リー・トレビノの表と裏 スーパーメックスといわれた男のゴルフ人生 日本では「東海クラシック」の常連でよくやって来たある年のこと。 その時の忘れられないエピソードがある。
リー・トレビノの表と裏 スーパーメックスといわれた男のゴルフ人生 ゴルフは天性のものを持っていた。すでにプッシュ打法といわれるオープンスタンスから高低を打ち分ける独特のフェードボールを編み出していた。
リー・トレビノの表と裏 スーパーメックスといわれた男のゴルフ人生 リー・トレビノは陽気なメキシコ人。大口を開けて笑い。いつも陽気でプレーは早く、歯切れがいい。
ヒューバート・グリーン物語 その2 早打ちマックの華麗なるゴルフ人生 メジャーにも2勝し、親日家で知られる 伊達男・グリーンの素顔!
H・グリーンの華麗なるゴルフ人生 その1 一躍有名にした"ミルクマン・パット" カウボーイハットが似合う伊達男の 魅力が満載!
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