PREMIUM GOLF
難易度全米NO1のホールにチャレンジ!!
KOOLAU Golf Club(Hawaii U...
文:武藤 一彦
写真:ゲーリー小林

その時代。要するに二人が活躍した時代は、おそらくゴルフ界はボビー・ジョーンズ
一色だったはずだ。
1922年、サラゼンが「全米オープン」に勝った時、1打差2位はジョーンズである。
同じ20歳同士のつばぜり合いだが、世間は、そう、今の石川遼のごとき興奮を
トップアマに送り続けたと想像できる。
ジョーンズの時代は、すでに始まって佳境に入っていたのである。当時はいかに
サラゼンとはいえ、太刀打ちできないゴルフの世界の現実。
サラゼンは言っている。
「私には二人の友人がいる。ヘーゲンとジョーンズだ。自分が決めたことで、
彼らも、しかし、そう想ってくれていると思う関係だ。ヘーゲンは、クラブハウス
にも入れないプロの低い立場に反発し戦った戦友だった。ジョーンズは、弁護士や
実業家としてもゴルフを次々と変えた尊敬できる友人だった。手紙のやり取りを
頻繁にしたし、家族ぐるみの付き合いだった」
ヘーゲンは、プロはこうあるべきだと、従来のアマ主体のゴルフ界に敢然と
立ち向かった。ジョーンズは、慣習やマナーの規律にまで及ぶゴルフの伝道師。
いわばアイドルとしての大きな存在だった。この見方は歴史が証左している。
そこでサラゼンである。
サンドウェッジを考案した直後に始まった「マスターズ」には、第1回から
出場し、2回目でアルバトロスを出して優勝。その過程に色濃く残るのは、
プロフェッショナルとしての匂いである。


「ジュンクラシック」のロッジで聞いて、今でも覚えている話がある。
「アメリカ中をすべてマイカーで遠征した。バッグに着替えを詰め
トランクに積み、全部載せた車で、いくら運転しても疲れなかった。
そういう遠征の仕方が大好きだったんだ」
「ボビーもサンドウェッジを使っていたかって? いや、彼が引退
してからだからね、私のウェッジができあがったのは」
晩年しか知らないが、サラゼンのおっとりとした姿には、得も言わ
れぬ雰囲気があった。品格、品性、そして何より膝の上に這い上がり
たくなるような親しみを感じた人だった。
ゴルフに目一杯をかけることは、周辺の人と心底からぶつかり理解
しようとした努力の賜物だったのだろう。
ジョーンズのどこか取り澄ました質感とは違うプロゴルファー・サラゼン。
真の職人と決めつける所以である。 (End)

◇武藤 一彦(むとう かずひこ) ゴルフジャーナリスト 評論家。
報知新聞社運動部、編集委員、専属評論家を経て現職。トーナメントの
テレビ解説、コラムなど幅広く活躍。日本プロゴルフ協会(JPGA)理事、
日本ゴルフトーナメント振興協会メディア委員会委員、世界ゴルフ殿堂
選考委員。1939年11月、東京生まれ。
◇小林 滋(こばやし しげる) ゲーリー小林の名で知られる日本を
代表するプロゴルフトーナメントカメラマン。日本国内はもとより世界4大
メジャーなど数多くのプロゴルフトーナメントを取材。国内外のトッププロ
とも親交が厚く、中でもタイガー・ウッズに最も信頼されているカメラマン。
これまでの収録枚数は20万枚以上。
Date:2010.09.24 Category:ゴルファー